#105
名前を失うこと
2013-6-16
貧困・路上生活者たちを支援するNPOもやい代表の稲葉剛さんの講演と、シンガーソングライターの寺尾紗穂さんの歌のコラボレーションという、異色の催しが四谷の聖イグナチオ教会にてありました。
私が寺尾さんを知ったのはずいぶん前に音楽雑誌で見かけたときで、その後何枚かCDも聴いていいなあ思ったものの、彼女のライヴには行ったことがなかったし、参加費は自由献金だというので、今回の催しは彼女目当てで行ったようなものでした。
一方稲葉さんについては本を何冊か読んだことがあり、どのような活動をしているかは一応は知っていましたが、実際にどんな人なのか、どんな話が聞けるかが楽しみでもありました。
講演の中で、稲葉さんは、これまで行ってきた路上生活者や生活保護者、日雇労働者などの生活困窮者たちの支援活動を紹介してくれました。
1990年代のバブル崩壊とともに急激に増えていった新宿の路上生活者たちが、段ボールでそれぞれねぐらを作って出来た「新宿段ボール村」。
今は動く歩道が設置されている、都庁へ向かう地下歩道に当時それはあったようですが、その段ボールの家の中でひっそり亡くなる人も多く、方やその横を日常的に多くの人が通過してゆくという様に衝撃を受けたそうです。
そうした路上生活者たちは病気になって福祉事務所に相談に行っても水際作戦で追い返され、病院に行くには「悪くなるまで働いてぶったおれる」しかないと彼らはあきらめてしまう。
名前を失うこと。
稲葉さんはある日、日頃付き合いのあった路上生活者が病院に運ばれたというので誰それさんはいますか、というと、そんな人はいませんと言われる。で、これこれこういう人と説明すると、「ああ、新宿太郎さんね」と言われたといいます。
つまり、彼らは身元を証明するものを持たないので意識不明になったりすると「新宿から運ばれた身元不明の人」のように「どこそこから運ばれた何番目の人」という感覚でそんなふうに呼ばれるらしいのです。そもそも、これら路上生活者が実名を名乗らないことも多い。
稲葉さんは、クリスチャン・ボルタンスキーという芸術家の言葉を紹介してくれました。
「人は2度死ぬといわれている。
1度目は実際に死ぬときであり、2度目は写真が発見され、それが誰であるか知る人が1人もいない時だ」
路上生活者の場合、その順番が逆の場合もある。つまり、生きているときでも他人とのつながりも無く、誰であるかも知られずに暮らし、ひっそりと死ぬ。
引き取り手の無い無縁死、年間3万2千人。そのうち身元不明の人、年間千人。
そして稲葉さんが会った路上生活者たち一人一人を、映像で紹介してくれました。
一人一人、個性豊かな人たち。
でも彼らは皆、若くして亡くなります。稲葉さんが会った人たちは、その多くの人が、およそ50代で亡くなったといいます。それだけ路上生活というのは過酷です。
そして2部は、原発労働者について。
もやいでは、1998年にはすでに福島第一原発における、シュラウドの交換に携わる仕事について、被曝量が多すぎるということで労働者たちにこの仕事に就かないよう注意を促していました。
当時、安価な人海戦術として大量の日雇い労働者がその作業に投入されたのだそうです。
原発現場に連れて行かれた「松っちゃん」。
「楽な仕事がある。半年でも一年でもいいから」と誘われ、用意されたバスに乗り込みますが、行く先も教えられず。
着いたところは原子力発電所でした。
作業服と線量計をつけられ、現場に送り込まれますが、線量計が鳴ると休憩、しばらくしたらまた仕事に戻り、また線量計が鳴ったら休憩。
そんな繰り返しの仕事をしているうちに原因不明の病気になり、かといって会社がそれに対処してくれるわけでもなく、仕方なく逃げ帰ってきたといいます。
稲葉さんは原発を「だれかの犠牲」を前提にしたシステムと表現しました。ウラン採掘から人口減少地域への原発の建設、放射性廃棄物の処理問題、そして被曝労働者。
原発を輸出するというのは、このシステムを丸ごと輸出することだと。
最後に稲葉さんは、「誰かの犠牲で成り立つのではない社会を目指したい」とおっしゃってくれました。
冷静な語り口ながら誠実さや暖かさを感じる一方、路上生活者のため福祉事務所や病院などをまわるという、外見からは想像し難い行動的一面を垣間見せた稲葉さん。
こんな稲葉さんに生活困窮者の人たちが信頼を寄せるのも分かるような気がして、稲葉さんは今、事実上改悪である生活保護法の改正について異議を唱えていますが、どんな権力者よりもとても大きく力強く感じました。
そして、寺尾さんの歌。
寺尾さんもまた、学生のときにボランティアで路上生活者と接していたそうです。
迫川尚子さんが写した、新宿の路上生活者の数々の写真のスライドとともに、寺尾さんは歌いました。寺尾さんの多くの持ち歌の中でも、特にこれらの路上生活者・日雇労働者たちについて歌った歌。
それは、この社会的に弱い人たちに目を向ける、とてもやさしい、慰められるような歌。
今回の参加者には、稲葉さんや寺尾さんとつきあいのあった生活困窮者の方たちもいらっしゃっていたらしく、写された映像に反応して盛り上がっていたような声が聞こえたのが印象的でした。
私は寺尾さんの「アジアの汗」という歌が好きなのですが、その曲も歌ってくれました。今はケガが原因で生活保護を受けている労働者のおじさんが、かつて立派なビルの建設に携わり、それを誇りに思っている、そんな歌。
この歌にはモデルがいるとは聞いていましたが、今回の講演で、坂本さんという方がモデルであると教えてくれました。
稲葉さんも、寺尾さんもお知り合いの方。
坂本さんは中国語が話せると言ってしゃべるのですが、お二人はその中国語がどうも理解出来ない。
でも坂本さんは、逆に彼らの中国語がおかしいと言うし、実はNHKの中国語講座にその中国語はおかしいとクレームの電話を入れたことがあるという。
中国は広いからきっと地方の言葉なのでしょうというようなことを寺尾さんはおっしゃってましたが、そんな思わずふふっと笑ってしまうようなエピソードも披露してくれました。
坂本さん、ジェフ・リードさんという、路上生活者の絵を描くイギリスの絵描きさんが来日した時、モデルを捜していたリードさんに対して他の人たちは恥ずかしがって断ったのに、坂本さんは描いてもいいと返答します。そのうち、坂本さんは自分は実は絵が好きなのだと気づき、いろいろな絵を描き始めます。
寺尾さんの「アジアの汗」のビデオクリップ。
ここに、ジェフ・リードさんが描いたその坂本さんの似顔絵と、54歳で亡くなった坂本さんが生前描いた絵が収められていました。
***
講演のあった聖イグナチオ教会の、ちょうど中央線の線路を超えて反対側のエリアの職場で、15年ほど前に私は働いていたことがありました。
当時、四谷にも路上生活者がいて、外堀通りの歩道にも物乞いをしているおじさんがいました。
私は何かの用事でその前を通ることが多かったのですが、いつも気になりつつも特段何もするということもなくその前をそのまま通り過ぎていました。
そしてある日、そのおじさんがいないことにふと気づきました。そして、おじさんがいつもいた辺りの、その後ろの駐車場際の土留めの上に、花の差してあるガラスの空き瓶。
ああ、亡くなったんだ。
私はそのおじさんのことを見て見ぬふりをしていたのに、その空き瓶の花を見て愕然としたことを、その歩道を通るたびに思い出すのです。
私が生きている限り、そのおじさんの「2度目の死」は無いでしょう。
特定非営利活動法人 自立生活サポートセンター・もやい http://www.moyai.net/
寺尾紗穂オフィシャルサイト http://www.sahoterao.com/
カテゴリー:気になる人たち